組図美術大学(くむずびじゅつだいがく)修士課程2年、来年は博士課程には進まず、自学でニューヨークへ行く予定。
わたし、インスタレーションアートの追求を目指している“表現者”みずきです。
まだ学生だけど、表現者としてのエネルギーはあますことなく・むしろもてあましてるほどのアーティストの卵。。
ごめんなさい、「インスタレーション」なんてまだまだ聞き慣れない言葉を使ってしまって。
インスタレーション…そんな単語ひとつに表現方法を納めるのも癪だけど。
既存でクラシカルな「絵画」や「彫刻」などの静止的な表現方法までに治まらず、
屋外や室内でオブジェを設置し、鑑賞者に全身をもってアーティストの表現したいことを体感してもらうアートのことをいうのかしら?
たぶん、わたしがやろうとしている表現方法への定義は、あってないようなものだけれど…
最近、私のインスピレーションにビビっとくる素材が身近に来たの。
同じゼミの新入生・Yクンって言うんだけど。
それまで「実験的」にゼミの教授を素材としてコンテンポラリーアートを試みたけど…
やっぱり「ナニをするのか」経験的に知識のある“オブジェ”では私の目指す表現には到達しなかったみたい。
だって、コンテンポラリーアートって、偶然と必然が制作者の意図するところじゃないかしら?
今春、入学してきたばかりのYクンを見て、私の琴線がびんびんに触れてしまったの。
この半年ばかり、優しく声をかけ、さり気なく触れたりして、このYクンという素材を観察&成育させてきたの。
もう頃合いは熟したと思った先日。
彼を私の住居兼アトリエに招いたの。
「みずき先輩の表現方法について教えて下さい」って言うもんだから。これはもうそのタイミングだ!ってね(笑)。
私の“アトリエ”には産婦人科医からゆずり受けた分娩台、自作の磔台、たくさんのロープと鞭、そして蝋燭や絵の具など、様々な「表現方法」の材料がいつもあるの。
なかには首輪や口枷、手錠なども。。(前衛的すぎるって思わないでね^^)
そこに「オブジェ」となる“素材”を置いて、その時々の私の気分・感性にまかせ、素材を料理していくの。
「オブジェ」は素材であると同時に鑑賞者に、
そして「制作者」である私も同時に鑑賞者にもなるたまらないひととき。
互いに、この空間内で全ての五感と“魂の叫び”を通して、二度とは来ない感動的なインスピレーションを交換しあうひととき。
Yクンも、最初に拘束台に繋がれた時とまどった表情をしていたけれど、それも「インスタレーション」では嬉しい偶然の表現のひとつ。
“素材”が恍惚の表情を見せた時、私の体内からほとばしる液体をその素材にかける際が最高の瞬間!
やはり、いくら努力して作成した人工的な物よりも、人間の生(性?)なる噴出物による芸術は何よりも堪え難いものだから。
私の表現方法は、既存の枠に納まった社会に対する様々なアンチテーゼ。
まだまだ頭の堅い保守的な美術評論家には
「破廉恥だ」「それはSMというやつなのか?」などの批判的な声も多いけれど。
(本当は、おまえらもみずきの手により“オブジェ”になりたいんでしょ?)
草間○生やオノ・○ーコも、時として早すぎるアーティストは(特に“女”という性別を有してるものは)、体制的なものからの強すぎる風を受けるものみたいね。
まだまだ、私の表現方法が世間に認められるには50年はかかるかしら、
ぞれだけ私が先走ってるっていうのもあるけれど(笑)。
だけれども、今回“素材”になってくれたYクンはなかなかの反応だったわ。
わたしの更なるインスピレーションをかき立ててくれたしね♪
次なるアートの旅に出るべく、新たな“素材”を探し続け、表現方法も常に追求していこうと思っている“表現者”みずきでした^^
※今回の記事はハンフィクション(フィクション:ノンフィクション=5:5※みずきの造語(笑))です。
「Yクン」のずいぶん前の了承のもと、書かせていただきました^^
この記事読むまではただの「変態行為」だと思ってました。
あと50年以上経つと、拘束台や磔台がフツーに家具店で売られ、オブジェとなった自分の全身が映し出されたような大きな鏡が戸建やアパートに標準装備されるんでしょうね^^
長生きしたいものです。